深夜。
蒸し暑さに、つぐみが目を覚ました。 枕元に置かれた時計を見ると、2時を少しまわっていた。「ほんと、暑いわね……」
汗を拭い、布団から出たつぐみが窓際に立ち、カーテンを少し開ける。
「私……本当に来ちゃったのね、直希のところに……」
そう思うと、口元が自然と緩んだ。両手を口に重ね、小さく笑う。
* * *
直希の幼馴染、東海林つぐみ。
子供の頃から、気になったことは口に出さないと気が済まない性分で、それが元でいつも周囲とトラブルになっていた。 男子からはいじめられ、女子からも敬遠される存在だった。 自分は正しいことを言っているのに、なぜこうなってしまうのか。 幼いつぐみには、それが理解出来なかった。しかしそんな彼女にも一人だけ、友達と言える存在がいた。
それが直希だった。 直希だけは、口うるさい自分に嫌な顔ひとつせず、いつも傍にいてくれた。 いじめられそうになった時も、かばってくれた。 そんな直希のことを、異性として意識しだしたのはいつからなんだろう。つぐみはまた、小さく笑った。
考えるまでもない、あの時だ。「直希……ちゃんと眠れてるかな……」
月明かりに照らされた庭の池をみつめ、そうつぶやく。
耳を澄ませば、波の音がかすかに聞こえた。「静かね……」
その時、食堂の方から物音が聞こえた。
「え……こんな時間に、誰かいるの……まさかとは思うけど直希、朝食の準備してるんじゃないわよね」
カーディガンをはおると、つぐみは扉を開け、食堂へと向かった。
* * *
「&
その頃文江の部屋には、あおいとつぐみが来ていた。「ごめんなさいね。あおいちゃんやつぐみちゃんにまで、迷惑かけちゃって」「いえいえ、とんでもないです。文江さんのことで迷惑だなんて、一度も思ったことありませんです」「と言うか文江おばさん、大丈夫なんですか」「うふふふっ。心配かけてごめんね、つぐみちゃん」「いえ、その……私はいいんです。今までだって、栄太郎おじさんとの喧嘩、何回も見てきましたし」「文江さん文江さん、そんなにいっぱい、栄太郎さんと喧嘩してましたですか」「そうねえ。まあ50年も一緒にいてるんだし、それなりにね」「いえいえ文江おばさん。普通の夫婦は、そこまで喧嘩してないと思いますよ。そうなる前に、離婚してると思います」「離婚ねえ……あの人と一緒にいて、不思議とそれだけは考えたこと、なかったのよね」「そうなんですか?」「どんなことがあっても、最後は私のところに戻ってくる。それが分かってたからかしら」「文江さん、本当に栄太郎さんのこと、信頼してますですね」「信頼……はしてないわね。どっちかって言ったら、馬鹿息子を見てるって感じかしら」「……文江おばさん。それ、かなり辛辣ですよ」「だってあの人、本当にそうなんだから。今の年になっても私、まだ子育てが終わってない気分だもの。ナオちゃんの方が、よっぽど自立してるでしょ」「それはそうかも、ですけど……でも、50年連れ添った夫と孫を比較してる時点で、栄太郎おじさんの株が大暴落してるんですけど」「うふふふっ。ねえ、それより教えてほしいことがあるの。こうやって、二人が私の部屋に泊まってくれることなんて、またあるかどうかも分からないし」「何をですか?」「二人はナオちゃんのこと、どう思ってるのかしら」「ええっ? ちょ、ちょっと文江おばさん、なんでそ
「お前、ガキの頃よく言ってたよな。自分が親を殺したんだって」「……」「お前はガキの頃から、わしの家に来るのが好きだった。若いやつらがよく来てたから、一緒に遊んでくれるのが嬉しかったんだろう。うちに来ればいつも、新藤さんのお孫さんですか、かわいい坊ちゃんですね、そう言われて悪い気はしなかったはずだ。 息子は……直人は、本当にわしの息子なのかと思うぐらい、クソ真面目なやつだった。お前への教育も厳しかった。だからお前は、口うるさい親のいる家より、甘やかしてくれるわしの家の方が好きだった」「……」「それであの日だ。夏休みに入ってすぐのことだった。わしの家に泊まりに来る前日になって、直人の工場でトラブルが起こった。そのせいで、直人たちがしばらく身動き取れなくなった。 わしの家に泊まる気になっていたお前は、大泣きしたそうだな。父さん母さんの嘘つき、嫌だ、絶対明日、じいちゃんばあちゃんの家に行くんだって聞かなかった。まあ、小学生になったばかりのガキだったんだ、仕方ないと言えば仕方ない。 そんなお前に根負けした直人からの連絡で、次の日わしはお前を迎えに行った。お前ときたら、そりゃもう嬉しそうだった。何日か遅れて来ることになった直人たちの顔も見ずに、喜んでわしの車に乗った」「そしてその日の夜、家が火事になって……」「ああ。連絡を受けてわしが行った時には、家は火に包まれていた」「……」「お前が駄々をこねて、直人たちを置いてわしの家に来たのは事実だ。だがな、そのことと家が火事になったことは、何の関係もない。ましてあの時のお前は、学校に入ったばかりのガキだったんだ。あの時のことを悔やんでしまうのは分かる。でもな、お前がいようがいまいが、あの日家が火事になるのは、避けられない運命だったんだ」「そう……かな……」「こんな言い方は直人たちに悪いと思うが、でもわしは、お前だけでも
「じいちゃん、いつまで落ち込んでるんだよ」「あ、ああ……すまんな、直希」 直希の部屋に泊まることになった栄太郎は、直希と二人、テーブルを囲んでビールを飲んでいた。「わしは……どうしたらいいんだろうな」「いやいや、俺に聞かれても困るよ。と言うか、どうするかは決まってるだろ。明日もう一度、ばあちゃんに謝って」「謝ってもなぁ……一晩ぐらいじゃ許してくれそうにない顔だったろ」「流石、夫婦歴50年ならではの意見だよな。ばあちゃんの怒りのゲージ、じいちゃんには見えてるんだ」「……あんなに怒ったばあさん、あれ以来だな」「街をまるごと巻き込んだ、伝説の大喧嘩」「はああっ……」 大きくため息をつくと、栄太郎はテーブルに顔を埋めた。「まあでも、なんだかんだで50年連れ添った二人なんだ。確かに今は熱くなってるけど、大丈夫だって」「でもな、あれだけ外面を気にするばあさんが……人前では完璧に猫をかぶってるばあさんが、このあおい荘であれだけぶち切れたんだぞ」「じいちゃんが踏んだ地雷の数だけ、ばあちゃんの仮面がはがれていったからね」「直希お前……ちょっと楽しんでるだろ」「うん、実は。ちょっとだけね」「こいつ」「ははっ。と言うか、久しぶりに元気なばあちゃんを見れて、嬉しかったかな。何だかんだでばあちゃん、俺と住むようになってから自分を抑えてたし」「……」「俺がじいちゃんばあちゃんの家に転がり込んで、二人の生活を変えてしまった。本当ならじいちゃんだって、もっと好き勝手にしたかったと思う……女遊びとかギャンブルとか」「おいおい、間違ってもばあさんの前でそんなこと、言わんでくれよ」「言わないよ
廊下で腰砕けになった栄太郎。呆然と見つめる直希、あおい、生田。 小山の部屋から顔を出したつぐみも、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。「……」 開け放たれた扉から、文江がゆっくりと姿を現す。そして栄太郎を見下ろすと、廊下を揺るがす大声で怒鳴った。「出ていけえええええっ!」「ふ……文江さん?」 いつも穏やかで優しい、そう思っていた文江のあり得ない姿に、あおいも衝撃を受けていた。「落ち着け、落ち着けって。な、何が気に入らなかったんだ? わしが山下さんと、その……話をしてたのが気に入らなかったのか?」「この……唐変木っ!」 栄太郎から枕を奪い取り、もう一度投げつけた。「そんなことぐらいで怒るんだったら、あんたはとっくの昔に死んでるだろ!」「だ……だろうな……」「この街の女……何人泣かせたと思ってるんだ、この色情狂!」「お、おいおい、そんなこと、今ここで言わんでも」「……でもあんたは、いつも私のところに帰ってくる……なんだかんだ言っても、最後にあんたが戻ってくるのは私のところだった。だから私も、そんなあんたを受け入れてた……今更そんな色目を使ったぐらいで、どうこう思ったりしないよ!」「じゃ、じゃあ、何を怒ってるんだ、ばあさん」「私はあんたのばあさんじゃない!」「え……」「私はあんたのばあさんじゃない! 妻だろ! 毎日毎日ばあさんばあさん、私がこの何十年、どんな気持ちでその言葉を聞いてきたと思ってるんだ!」「お、お前だってわしのこと、じいさんって呼ぶじゃないか」「あんたに合わせてるんだよ! 直希が物心ついた時から、あんたは私のこ
朝食後のラジオ体操が終わると、文江は早々に部屋に戻っていった。 残された栄太郎は、庭の喫煙所で頭を抱えている。「あ、あのその……直希さん、みなさん、それじゃ私、いってきます」「あ、ああ菜乃花ちゃん。何だかごめんね、朝からバタバタしちゃって」「いえ、それはいいんですけど、その……文江さん、大丈夫なんでしょうか」「大丈夫大丈夫。じいちゃんばあちゃん、夫婦歴長いからね。こういうことはよくあるんだ。心配ないよ、菜乃花ちゃんが帰ってくる頃には、またいつもの二人に戻ってるから」「そう、ですか……分かりました。じゃあみなさん、いってきます」「うん、いってらっしゃい」「菜乃花、実行委員、頑張ってね」「はい。つぐみさん、ありがとうございます」 そう言って、菜乃花が高校に向かった。「ふう……」 菜乃花の姿が見えなくなると、直希は大きくため息をついた。「何よ直希、菜乃花が行った途端に」「あ、いや……菜乃花ちゃんは今、色んなことに挑戦しようと頑張ってる。だから余計な心配をかけたくないんだよ。俺、うまいこと言えてたかな」「全く……そんなことだろうと思ったわよ。まあ、菜乃花は大丈夫なんじゃないかしら。あの子、直希の言うことに疑いを持ったりしないから」「そっか、よかった……」「にしても、ちょっと大袈裟じゃないかしら。文江おばさんだって、そんなに引きずる人じゃないでしょ」「だといいんだけど……いや、今回はつぐみの勘、外れてると思うぞ」「そうかしら」「ああ。じいちゃんばあちゃん、確かによく喧嘩するんだけど、俺が間に入ったら、結構簡単に仲直りしてくれてたんだ。それでも駄目だったのは、一回だけで」「それってまさか」
「あれ? ばあちゃんは?」 あおいたちが朝食を運んでいる時に、直希が栄太郎に声をかけた。「もう来るだろうよ。何でか知らんが、朝からご機嫌斜めなんだ」「また? じいちゃん、今度は何をしたんだよ」「いやいや、今回は本当に分からんのだよ。起きた時から、何でか知らんがずっとむくれてるんだ」「じいちゃん、知らない内に地雷を踏むところがあるからね。ほら、ちょっと考えてみてよ。でないとフォローも出来ないだろ」「いやいや本当、見当もつかんのだよ。私が何を言っても、『別に』の一点張りで」「ここに来てからは、そんなに喧嘩なんてしてなかったろ? と言うか、そう言えば一度もしてないんじゃないかな」「確かに……と言うことは、かれこれ半年ぐらい喧嘩してなかったのか」「奇跡だね。前の家だと、二日に一回は喧嘩してたのに」「うふふふふっ」 横で聞いていた山下が、口に手を当てて笑った。「ごめんね山下さん。ばあちゃんが来たら、ちょっとフォローしておいてくれませんか」「うふふふっ、いいわよ。でも……いいわね、喧嘩出来る相手がいるってことは」「あ、いや……これはどうも、失礼しました」「いえいえ、そういう意味じゃないですから、気にしないで下さいな。でも新藤さん、直希ちゃんの言う通りですよ。いつも優しくて穏やかな、あの文江さんが怒るなんて余程のことだと思うわ。何があったか知らないけど、ちゃんと謝ってあげないと」「ははっ、恐縮です。ですが山下さん、それを言うなら山下さんこそですよ。何と言うか、その……最近、めっきり綺麗になられた」「まあ新藤さん、お上手ですこと。うふふふふっ」「いやいや、世辞などではなく本当のことです。何やら孫たちと一緒になって、色々難しいことをされているようですが、その頃からですかな。本当、今まで以上にお綺麗になられた」「うふふふふっ、本当、やめてくださ